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東京高等裁判所 平成12年(う)911号 判決 2000年8月02日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人高井佳江子作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官鈴木實作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

所論は、事実誤認及びこれに付加した理由齟齬、理由不備、審理不尽の主張である。

一  所論は、要するに、原判決は、被告人がA子に対し、その背後から同人の着用していたワンピースの裾をまくり上げ、右手をパンティの中に差し入れて陰部をさわるなどしたとの事実を認定しているが、被告人はそのような行為を行った犯人ではなく、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があり、被告人を犯人と認定した理由には、理由齟齬、理由不備があり、審理不尽の違法がある、というのである。

二  そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果も併せて検討する。

原判決が認定した犯罪事実の要旨は、「被告人は、平成一一年七月五日午前一〇時ころ、東京都杉並区内の路上において、A子(当時二三歳)に対し、その背後から、同人の着用していたワンピースの裾をまくり上げ、右手をパンティの中に差し入れて陰部をさわるなどし、もって強いてわいせつな行為をした。」というものであるところ、被告人は、捜査段階から一貫して右のようなわいせつな行為をしたことはなく、犯行日時に犯行場所にいたことはないと否認していた。原判決は、公判期日外で証人として取り調べたA子の供述(以下「A子供述」という。)や原審公判で証人として取り調べたBの供述に依拠して前記のとおり認定し、「事実認定の補足説明」で、被告人を犯人と特定したA子の供述の信用性を認めている。

しかしながら、所論が犯人と被告人との同一性について詳細に疑問点を指摘しているとおり、A子及びBの各供述に依拠して被告人を犯人と断定するには合理的な疑いが残るといわざるを得ず、事実誤認を主張する論旨は理由がある。以下その理由を述べる。

三  まず、A子の犯人識別供述の信用性を中心として検討する。

1  A子供述はおおよそ原判決がその供述の要旨としてまとめているとおりであるが、その骨子は、「(一) 私は、平成一一年七月五日午前一〇時に交際中のBと自宅近くの路上で待ち合わせの約束をしていたことから、その二、三分前に待ち合わせ場所にいたところ、一〇ないし一三メートルくらい離れたC野印刷の前で、バイクに乗った男が何かごそごそする感じで荷物を出しているような素振りをしながらバイクを停めていた。(二) 午前一〇時になってもBが現れないので、携帯電話で連絡を取ったところ、Bは車を運転して待ち合わせ場所に向かって近くまで来ていることが分かったので、電話をしながらすぐ近くの交差点に移動した。(三) Bの車が遠方に現れるのを確認したころ、突然背後からワンピースの裾をめくられた上、太ももの付け根の辺りからパンツの中に手を入れられ、陰部を触られるという被害にあった。(四) 私は、びっくりして、左後方を振り返ったところ、バイクにまたがっていた犯人と目が合った。C野印刷の前にいたバイクの男が、私の左後方にバイクを乗り付け、そのバイクにまたがっていたのだと思うが、私は、Bと携帯電話で話をしていたので、近付いてくるような音には気付かなかった。(五) Bに携帯電話で『今、痴漢された。そこのバイクの男を捕まえて。』あるいは『そこのピンクの男捕まえて。』というように言ったところ、Bは犯人の行く手をふさぐ形で自動車を停めたが、犯人は一度よろめいた後体勢を立て直して逃げてしまった。(六) 当日は晴れていた。(七) その三日後である七月八日午後一〇時ころ、私が自宅前の路上でBと立ち話をしていた際、右後方からバイクが近付き、脇を通り過ぎたが、バイクに乗っている男の顔を見たところ、男と目が合い、直ぐに先日の犯人に間違いないと思った。この男は、ヘルメットのライナーを下げ、私たちから顔をそむけるように右方向を向いて行ってしまった。(八) 男が向かった先は袋小路となって、環状八号線に抜ける道が決まっていることから、私はBと迂回して、途中停めてあるバイクを調べながら、路地を奥に向かったところ、B山サンハウスの前の路上にバイクを停めてチェーンをかけている男を認めた。その男の顔を確認しようとしたところ、はっきりと顔を確認することはできなかったが、私が『絶対犯人だよ。』とか大きな声で言っていたのに、そのままB山サンハウスに入ったので、犯人と確信し、Bと一緒に近くの交番に行き、痴漢の犯人を見付けたと申告した。(九) 警察署で被告人を見たが、目とか、ひげとかの印象も強く残っているので、犯人だとしっかり言える。」というのである。

2  Bの原審供述は、事実経過についてはA子供述に沿うものであり、自分の方に近付いてくる犯人の顔を三秒間くらい意識して見たとしているが、犯人の識別については、検察官から見せられたひげのある男一六人の写真を貼付した写真台帳(甲四)から(八)と(一二)の写真を選び、そのうちの(八)は被告人のものであるが(一二)は全く異なった他人のものであって、人物を特定するには至っていない。

3  被告人の容貌等を見るに、関係証拠によれば、被告人は、平成一一年七月二九日午前七時五〇分に逮捕されたが、当時四〇歳で中学校卒業以来美容室に勤務し、前科前歴はなく、身長一七五センチメートル、体重七四キログラムであり、茶髪で、口ひげ、あごひげがあり、そのひげも茶に染めていたことが認められ、原審及び当審における被告人供述、原審における証人Cの供述によれば、七月五日当時も同様であったと認められるのであって、逮捕時と異なっていたと見るべき証拠はない。

4  A子供述の犯人の容貌の認識に関する部分を詳細に検討するに、A子の視力は、左右とも〇・六で乱視が入っているというのであるから、犯行直前に一〇メートル以上離れたC野印刷の路上にいた犯人を目撃した際にその容貌を詳細に認識し得たものとはいい難く、結局、意識して犯人の容貌を見て認識したのは、犯行時に間近に見た時のものであり、その時間は、公判供述では「二秒くらい」であるが、当審において供述の経過を立証するものとして採用したA子の検察官調書では「約一秒くらい」というのであって、一瞬といえる程度のごく短時間のことである。A子は、振り返った際、三〇ないし四〇センチメートルの距離で犯人の顔を正面から見たというのであるが、A子の犯人の容貌の特徴を述べているところを見ると、頭髪はヘルメットに隠れ、耳の形状は分からず、眉毛の形状、鼻の形状、唇の形状については、いずれも具体的に説明するほどに特定できるものはなく、もっぱら、目の印象と口ひげの状態に尽きることになる。その上、傷跡やほくろなどの特徴的なものはなく、「目が大きくてきょろっとしている。」というような印象的なものにとどまっている。そうすると、A子が化粧品の販売を職業とし、人の顔を覚えることが得意な方であるとしても、そのようなごく短時間の目撃による印象的なものでなされた犯人識別については特に慎重に考察すべきものである。

5  そして、当審において、前記同様の趣旨で採用したA子の平成一一年七月九日付け警察官調書(二通)によれば、A子が当初警察官に説明した犯人像は、「年齢四〇から四五歳、やせ型、ピンクの長袖シャツ、刈り揃えた口ヒゲ、黒っぽいスクータータイプのオートバイ、黒色半キャップ型のヘルメットをかぶった配達人風の男」というものであるに対して、被告人は、「年齢四〇歳、身長一七五センチメートル、体重七四キログラム、がっちり型、茶髪、口ひげとあごひげ、中学校卒業以来美容室勤務」というのであって、A子が述べるような「やせ型」でなく、「配達人風」でもない。

6  特に被告人の体型及び頬の状態に関して見ると、A子供述は、「犯人はやせ型で頬がこけたイメージをもっていた。」というのであり、また、A子は前記検察官調書において「実際に、犯人が捕まり、取調べを受けているところを、窓越しに確認した。この時には、最初、犯人の男のヘルメットをかぶった印象が強かったためか、捕まった男の髪が少し茶髪に染まっており、若く見えたことと、面長の印象があったのに、顔が以外とふっくらとしていましたので、正直、犯人の男だろうかという不安になりました。」と供述し、犯人の頬の印象は被告人のそれと異なるかのような供述をしているのである。そして、A子の同調書における犯人特定の理由は、「一回だけ、男が私の方を向いて目と目が合ったことがあり、その瞬間、目だけを見て犯人の男に間違いないことが分かり、その旨、刑事さんに説明した。」というのであって、結局のところ、目が良く似ているというのに尽きるのである。

そうすると、極めて短時間の認識である上、目の印象のみで被告人を犯人と断定することには疑問が残るというべきである。また、右調書の記載からすれば、A子は犯人が茶髪である印象がなかったとみられるが、被告人がヘルメットをかぶった状態を撮影した平成一一年八月一一日付け写真撮影報告書(甲五)によれば、ヘルメットをかぶった被告人を後方から見た場合には、被告人の後頭部の茶髪が明瞭に見られるのであって、犯人が逃走するのを後方から見ていたはずのA子が、犯人の髪について茶髪であるという印象を抱いていなかったことも、犯人と被告人との同一性に対する疑問を抱かせるものといえる。

一方、Bは、「犯人は頬のこけた面長」と表現し、前記のとおり、被告人の写真である(八)と別人の写真である(一二)とを選んでいるところ、(一二)の写真の人物は、(八)の被告人と目元は良く似ているが、明らかに「頬がこけている」人物である。その上、Bは、原審において、写真(一二)の方が(八)の被告人の写真よりも頬の感じが似ている旨供述しているのであって、Bの供述からすれば、被告人が犯人とは別人である可能性が少なからずあるというべきであって、原判決がB供述が被告人を犯人と断定する補強となると判示しているのは相当とはいえない。

7  さらに、犯人のひげに関する供述を見ても、A子の警察官調書は、被告人のひげについて、当初は「口ひげ」とのみ記載があり、「あごひげ」については記載がなく、平成一一年八月九日付け警察官調書において、初めてあごひげに関する記載が現れており、A子が当初から犯人のひげについて明瞭な記憶を保持していたのか疑問が生じるといわざるを得ない。なお、Bが選別した前記写真(一二)の人物は、口ひげだけで、あごひげがない。

四  次に、A子の犯人識別供述以外に犯人と被告人との結び付きを示すものがあるか否かについて個別に検討する。

1  犯人の着ていたものについて

A子は、犯人はピンクの長袖シャツを着用していた旨一貫して供述している。原判決は、「Bにおいては、むしろ半袖であったとの印象を記憶していることからして、犯人の着衣が長袖であったと即断することは相当ではない。」と判示しているが、Bは、検察官の質問に対して「長そでか半そでかは覚えていない。」と供述したのに対し、A子供述は、「ピンクっぽい長袖のシャツを着ていたように覚えています。」と長袖であった旨明言し、A子の捜査段階の調書においても一貫して長袖であった旨供述しているのであり、犯人は長袖を着用していたものと認定すべきであって、原判決の右判示は相当でない。

そして、関係証拠によれば、被告人が逮捕された日に被告人宅から赤色の長袖シャツと半袖シャツが押収されているが、A子供述に適う長袖シャツは発見されておらず、被告人がピンクの長袖シャツを着用していたことがあったり、それを処分したような形跡もうかがえない本件においては、被告人が犯人であると断定するA子供述の信用性に疑問を抱かせる一事情というべきである。

2  バイクの大きさ、色彩について

A子供述は、犯人のバイクについて「黒っぽい五〇シーシーかそれよりちょっと大きいスクーター型のもの」「色も黒だという記憶があってお話したんですけど、色までの記憶がちゃんと残っておりません。」というのであり、Bは「大きさは覚えていないが暗い色だった。」と供述している。しかしながら、関係証拠によれば、被告人のスクーターは、ホンダ製スペーシー、一二五シーシー、小豆色の部分もあり、長さは一七九センチメートルもあって、五〇シーシーのものよりも明らかに大きく、色についても、昼間の明るい光線の下で見たときの印象として、「黒っぽい」あるいは「黒」と記憶するようなものであるとはいえない。

3  ヘルメットについて

A子は、前記七月九日付け警察官調書(二通)において、「黒色半キャップ型のヘルメット」と説明しているが、被告人のヘルメットは、グレーであって、暗い場所では黒く見えるとしても、明るい昼間に「黒」と認識される色とはいい難い。また、その形状も半キャップと呼ぶのがふさわしいかについては、疑問が残るところである。

4  七月八日夜の目撃状況について

七月八日夜の目撃状況も、七月五日の短時間の目撃記憶を前提とするものである上、昼間の目撃と夜間バイクで走行中の人物の目撃という相違もあって、犯人識別供述の補強としては不十分であり、原判決のように、右の人物を目撃した後のA子の行動は、むしろ被害に遭った際の目撃供述の信用性を高めるものであるとするのは相当でない。

5  被告人の供述内容について

原判決は、被告人が不合理な供述をしていると指摘するが、当審で取調べをしたレンタルビデオ借入一覧表及び平成一二年七月三日付け報告書によれば、平成一一年七月八日に被告人がビデオを借りていないことが認められる上、A子及びBの各供述によれば、B山サンハウスに入る際に被告人が郵便受けを見るという、仕事帰りを思わせる行動をとっているのであるから、被告人が当日A子方前を通らなかったと述べるのが不合理な供述ということはできない。

五  以上のとおり、原審及び当審で取り調べた全証拠によっても、被告人が犯人であると認定するには合理的な疑いをいれる余地があるから、A子供述に信用性を認め、主としてその供述に依拠して被告人を犯人であると認定した原判決は、証拠の評価を誤り事実を誤認したものであって、これが、判決に影響を及ぼすことは明らかであり、原判決は、弁護人のその余の所論について判断するまでもなく、破棄を免れない。

六  よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により被告事件につき更に判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、平成一一年七月五日午前一〇時ころ、東京都杉並区《番地省略》先路上において、A子(当二三年)に対し、その背後から、同女が着用していたワンピースの裾をめくり上げ、右手をパンティ内に差し入れて、その陰部を弄び、もって、強いてわいせつな行為をしたものである。」というものであるが、前記のとおり本件公訴事実については犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対して無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高橋省吾 裁判官 青木正良 村木保裕)

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